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パトリック・ヘッド(''Patrick Head'' 、1945年6月5日 - )はイギリス・ファンボロー出身のウィリアムズF1チーム共同創設者であり、同チームのエンジニアリング・ディレクターである。 1977年から25年もの間、ヘッドはウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング社のテクニカル・ディレクターの職にあり続け、F1における技術革新に携わってきた。ヘッドは2004年5月にサム・マイケルが後任となるまで、ウィリアムズにおける設計・製造を監督していた。 ヘッドはしばしば無愛想で遠慮なく自分の本心を社内の人間やプレス関係者に語るという評判であり、それによって彼はこのスポーツにおける非常に有名な人物に位置づけられている。 == 初期の経歴 == パトリック・ヘッドは、父親が1950年代にジャガーのスポーツカーでレースに参加していたこともあり、生まれてすぐモータースポーツに囲まれて育ったと言える。そしてウエリントン・カレッジで学んだ後にイギリス海軍に入隊したが、すぐに軍隊が自らの天職とは言えないことを悟り、除隊して大学へと進学した。最初はバーミンガム大学、続いてボーンマス大学で学び、1970年には機械工学科を卒業した。直後に英国ハンチンドンにあるローラ社に入社した。ここで彼は、後にベネトンやスクーデリア・フェラーリの設計に携わってウィリアムズの好敵手となる、ジョン・バーナードとの友情を育んだ。 ヘッドは自動車製造業や技術企業を設立しようとする数多くの新プロジェクトに関わり、その間にフランク・ウィリアムズと出会った。しかし、この分野でうまく成功を掴めなかったことに幻滅したヘッドは、モータースポーツを諦めてボート製造へと転職した。 1976年、当時34歳だったフランク・ウィリアムズは自分自身のチームを立ち上げる機が熟したと考え、ヘッドを再びF1の世界へ引き戻すべく勧誘した。この時テクニカル・ディレクターの採用試験の面接で『1日12時間、週7日間でも働く意欲があるか?』というウィリアムズの質問に対してヘッドが『ありません。でもそんなに頑張らなければいけないのは、やり方が悪いからですよ』と答えた逸話がある。 一旦はうまく行かなかったものの、1977年2月8日にウィリアムズ70%、ヘッド30%の出資によってウィリアムズ・グランプリ・エンジニアリング社が設立された。1977年にはチームは市販のマーチ・シャシーを用いて出走したが、1978年にはサウジ航空の後援を受け、オーストラリア人ドライバーのアラン・ジョーンズと契約して、ヘッドの設計したFW06を初めて出走させた。予算は乏しく、ウィリアムズはしばしば電話ボックスから経営を取り仕切る羽目になったが、それでもヘッドは何とかしっかりした車を設計した。 同シーズンにはウィリアムズは選手権で11ポイントを稼いでコンストラクターズランキング9位に食い込み、ここから上昇気流に乗り始めた。第4戦にはジョーンズがチームを初めて表彰台へと導いた。同年のイギリスグランプリではその後100を超えることになる優勝のうち最初の1勝を挙げた。同シーズンでさらに4勝を勝ち取り、ヘッドはグランプリにおけるデザイナーとしての名声を得た。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パトリック・ヘッド」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Patrick Head 」があります。 スポンサード リンク
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